2016年11月フランス短期旅行日記2:パリでのエクスポジション「バウハウスの精神」(L’esprit du Bauhaus)

(特別展パンフレットより)

今回の短期滞在、最終日はパリへ。もう何度も訪れているパリ、ましてや今年7月にも訪れているパリですが、それでも訪れたいところはいくらでもあります。今回は面白そうな特別展(Exposition)が2つありましたので、そのご報告を簡単にします。今回はその第一弾目となります。

パリに到着して最初に訪れたのは、ルーブル宮の一角にある装飾美術館(Les arts Décoratifs)、ここでは「バウハウスの精神」という名の特別展が行われていました。実はこの美術館自体に入るのは初めて。

しかし、残念ながらこの特別展は撮影禁止。内部の様子はウェブサイトに張られたいたYoutube動画で伺うことができます。

以下、現地で購入した雑誌の情報をもとに書いてみます。

出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus

ただしこちらはすべてフランス語で書かれています。少しは読めるようになったとはいえ、まだまだフランス語読解には自身がないので、次に紹介する著作でも勉強し、自分が理解したことを、自分なりの解釈で書いてみることにしました。

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バウハウスは美術学校

バウハウスといえばドイツ、特に建築のイメージが強く、確かその建築物のいくつかは世界遺産にも選ばれていたような、しかし、僕が知っているのはこの程度。いったいバウハウスってなんだろう?それが今回の特別展を訪れたいと思ったきっかけでした。

これまでBauhausとは人の名前もしくは建築活動の名称だと思っていましたが、まずはこれが大きく違いました。実は「美術学校」のことだったんですね。この美術学校Bauhausでは、建築はもちろんのこと、家具、彫刻、絵画、写真、演劇(舞台芸術)などあらゆる芸術を教えたということです。

(特別展パンフレットより)

Bauhausの美術学校は1919年にドイツのワイマールに創設され、ナチスドイツの圧力によって閉鎖される1933年まで続くこととなります。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

クレーやカンディンスキーも教鞭をとっていた

このバウハウス美術学校ですが、パウル・クレーは芸術理論の講師として、カンディンスキーは絵画・壁画の講師として、このBauhausの学校で教えていたそうです。錚々たるメンバーで驚きました。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

建築の印象が特に強かったのは、その学校の創始者である「ヴァルター・グロピウス」が建築家であること、そして学校の建物が世界遺産になっている、これらの印象からなのだと思います。

もっとも当初は建築を中心とした教育をすることが目的で創設されたそうですが、クレーやカンディンスキーなどの前衛的な芸術家が講師となったことが主な要因となって、後に彫刻、絵画、写真などにもその教育課程が広がっていきました。

バウハウスの前進、アーツ・アンド・クラフツ運動とアールヌーボー

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

さて、バウハウスは、当時の流行でもあったいくつかの芸術運動からも影響を受けていました。そのひとつが「アール・ヌーヴォー」です。

このアールヌーボーを理解するためには、その前進となるアーツ・アンド・クラフツ運動」というものを知っておく必要があるでしょう。むしろバウハウスはこちらの影響を直接受けていたといっても過言でありません。

アーツ・アンド・クラフツ運動とは、産業革命後、大量生産に伴い安価で粗悪な工業製品が数多く出回っていたことに対抗する運動としてウィリアム・モリスを中心にイギリスから始まったものであり、その目的は中世の頃のような職人による手作りの芸術的な製品づくりに回帰することでした。

しかし結局、この運動は一部のブルジョワ階級しか買うことの出来ないような高級品しか作ることしか成果を上げることができなかったのですが、現代的な工業生産、現代的な機能性をもつ工業製品に芸術的概念を融合させるという新しい考えを導き、その後に続くアール・ヌーヴォーやモデルニスモなどに大きな影響を及ぼしたと言われています。

バウハウスの創始者でもあるグロピウスもこうした影響を受けた芸術家のひとりでした。彼は当時の社会環境及びこのような芸術的ムーブメントを通して、機械生産が一般的になった時代において、職人(Aritisan)と芸術家(Artiste)で共通している本質をどのようにして体現するのか、こうした職人兼芸術家を育てるためには、これまでにはない新しいタイプの教育機関を作り出す必要性を感じ、1919年にバウハウスが創立に至ったというわけです。

ということで、バウハウスの精神には、「アーツ・アンド・クラフツ運動」にも通じる概念が共存しているものの、それがより現代的、機能的でかつシンプルなデザインに進化したともいえます。この特別展では、このことをわかりやすく伝えるために、以下の燭台を例にして説明していました。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

アール・ヌーヴォーの例として掲げられたのは下の燭台、これは1901年の作品。一方、バウハウス時代の例として掲げられたのが上の燭台、これが1922年の作品です。僕もこれを見てそしてこの解説を受けて、少しながらバウハウスの精神を垣間見れた気がしました。

中世ヨーロッパへの憧れ

ところで、Bauhausという名前は、中世の頃、大聖堂制作大工の組合名称「Bauhütte」という言葉が由来ということです。バウハウスはその中世の時代に存在した職人組合、職人や芸術家、そしてその作品を取引する業者などが集う場所、を現代風にアレンジして復活させた、とも言えます。

もともとヨーロッパでは、ギリシャ時代からシンメトリー的なデザイン、いわゆる数理的装飾技法が重んじられていた伝統があります。この特別展でも、大聖堂のデザイン手法、技法をあらためて幾何学的に再分析した研究やその関連作品の展示がありました。

以下の作品は、リオネル・ファイニンガー(Lyonel Feininger)という方の「カテドラル」という作品、こちらのグラビアはバウハウス創設時に作成したマニフェストとプログラム用の挿絵に使われたそうですが、これはグロピウスの中世職人組合への羨望を感じることのできる例だと言えるでしょう。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

日本からの影響も受けていた

さて、Bauhausの活動は、アールヌーボー以外にもアジアのデザイン、特に日本の芸術や文化からも影響を受けていたということです。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

たとえば、このバウハウスで講師も務めていたカンディンスキーのよく知られた画風も、日本の型紙からインスピレーションを得たものだった、展覧会ではそのように解説されていました。

 

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

確かに1870年頃というのはヨーロッパの中で、例えば印象派の画家たちが日本の浮世絵の影響を受けていたように、日本は特に影響を与えていたことは大変良く知られていたことは周知だと思います。

ただ、前述したギリシャ時代から続く西洋におけるシンメトリックな世界と、それとは対照的なアジアのアシンメトリックな世界、その影響が作品にどう影響したのか、まで詳しく解説した展示はあまりなかったと思います。雑誌やウェブサイトを見てもよくわかりませんでした。

それにしても、なぜここまで日本がヨーロッパでこの頃に注目されたのか、それはその当時のアジア諸国は中国を含めてほとんどがヨーロッパの列強の植民地となっていたわけですが、日本だけはまったくそうではなかったことが大きく影響しているようです。それが彼らにとっては不思議であったこと、それが特段興味をひいた理由となっていたとか。そのために、日本についていろいろと調査をするようになりました。もちろん歴史や風習ももちろんですが、技術や文化、芸術などもその対象になっていたそうです。

そういえば昔からずっと疑問でした。日本の立場から言えば明治維新後、はやく欧米列強に追いつくために欧米から様々な技術や文化を学ぶ必要があったことはわかるものの、彼らは意外と快くその申い入れを受け入れたのか、と。その背景には、実は彼ら自身もこの謎の東洋の強国?がどのような国なのか、を知りたかったということがあったわけですね。

ちなみに話はやや脱線しますが、この翌日に同じパリ市内にある武器博物館で行われていた第一次および第二次世界大戦に関する特別展でも、日本がアジアで唯一植民地化されず、そして日露戦争で勝利を収めるなど欧米と対等に渡り得る強国であった、と普通に説明されていました。

少々日本をひいきしそうなフランスでの展示とは言え、当時の欧米諸国からするとなんとも不思議なそして力強い国だと思われていたということを、ここでも改めて実感することができました。

バウハウスと現在のビル

さて、バウハウスといえばやはり建築、その主な特徴は、無駄な装飾はなくし、窓は大きめにして室内により灯りが入るようにしており、これまでの建築様式と比較すると、より合理的で透明的であるといえます。

(出所:Beaux Arts hors-série: L’esprit du Bauhaus)

ところが、そんなバウハウスの合理的な建築理念が学校創立当初からすぐに受け入れらていたかというと、実はそうでもなかったようです。まず当時としては斬新でなかなか理解してくれる人が少なかったという理由もありますが、それよりも創立者であるグロピウスが、自身の仕事で手一杯で、バウハウスの生徒の一部を自分の事務所に引き込むなど、創立当初は積極的に学校運営に関われなかったからだとも言われているそうです。

しかし、彼のあとに続いた2代目のハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)が、学校側にこうしたグロピウスの理念を植え付けることに尽力したため、1920年後半あたりからバウハウスでもようやくグロピウスの理念に基づいた建築学の教育が定着していったようです。

それにしても、あらためて考えてみるとこの様式って、今ではいくらでもそのあたりにあるビルのデザインだと思います。もしかすると現在のこのビルの形状に対する常識はこれが発祥なのかもしれませんね。少なくともバウハウスの影響(もしくはバウハウスを含む近代建築の影響)をなにかしら受けている、と思ってもよさそうですね。

実際に雑誌で紹介されているビルの写真を見ても、現代の我々からすると至って普通な感じもしなくはないです。常識にするってあらためて思うとものすごいことなんですね。なぜ、バウハウスが世界的な影響を与えたのかを垣間見る一例といえるでしょう。

話は少し変わりますが、ユネスコ世界遺産と言うとどうしても古いものばかりに注目が行きがちのなか、この2016年夏に認定されたル・コルビュジエの建築物やこのバウハウス関連施設が認定されています。それがどうしてなのか長年の疑問でしたが、今回の特別展を通して少しだけわかった気がしました。やや欧米に偏りがちではと感じるユネスコ世界遺産の選定ですが、こうした人類の文化への影響度に対する評価については、しっかりとしているという証拠といえるのでは無いでしょうか。

ワイマールでは見過ごしてしまったバウハウス

最後にバウハウスが最初に誕生したワイマールですが、実は6年前に行ったことがありました。しかし、残念ながらその当時はバウハウスについてよく知りませんでしたので、Neu-Bauhausという建物の前を写真だけ取って素通りしていたようです。さすがにバウハウスの背景を理解していないとなんだかわからないですよね。

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ワイマールがあるこのニーダーザクセン州自体は実は2015年10月にも訪れているのですが、バウハウスの学校があったデッサウ、そしてバウハウス創始者であるグロピウスの作品であるファグス工場があるアルフェルトなどなど、まだまだ行き足りていないところ、再訪したいところが数多くありそうです。さらには北ドイツのメルヘン街道沿いにもまだ行かなければいけない場所が多くあります。またドイツへ行かなければいけない動機が増えました。来年以降また検討しましょう。

ということで、現地での特別展で感じたこと、そして現地だけでは理解し得なかったことをあらためて勉強直して書いてみました。また一つ自分自身への見識が広がって満足の特別展だったと言えるでしょう。

なんだか短期旅行なのに結構重い内容が続くため、執筆に時間がかかっています。次回もまた美術関連の話題が続くので更新は遅れそうです。

プロフィール

都内の会社に務める傍ら、休暇を利用して旅行をしたり音楽活動をしているビジネスマン。趣味は、旅行、音楽など。旅行はヨーロッパが中心、現地でレンタカーを借りて旅することにはまっています。フランスの最も美しい村全156箇所を完全制覇!音楽はクラシックが中心。ヴァイオリンの演奏もします。最近は健康のためにランニングを開始。マラソンも。Marathon du Médoc 2014含む数回のフルマラソンを完走しています。